ムーミンバレーパークのショー演出を務めた、小栗了さんにインタビュー!

インタビュー
ムーミンバレーパークのショー演出を務めた、小栗了さんにインタビュー!

2019316日、埼玉県飯能市にムーミンの世界を追体験できる「ムーミンバレーパーク」がオープン。
このパークでいちばんの目玉となるアトラクション、「エンマの劇場」におけるキャラクターショーの脚本・演出を務めたのが演出家の小栗了さん(以下、了さん)です。
キャラクターショーの演出はもちろん、初めてのことばかりだったという今回の作品。
プライベートではパパでもある了さんに演出家になるまでの経緯や子育てについて、そしてこのショーへの思いをインタビューしました。

◆プロフィール
1976年東京生まれ。
1995年、映画監督を目指し渡米。
2001年、役者として活動するために帰国し、蜷川幸雄の舞台やスティーヴン・セガール主演の映画などに出演を果たす。
2006年、俳優引退と同時にオペラ制作会社のアートクリエーションに入社。
2007年、同社からスピンアウトする形で設立されたイベント制作会社NACの取締役に就任。
2007年よりシルク・ドゥ・ソレイユシアター東京の立ち上げに携わり、
日本スタッフ代表を閉館まで務める。
その後、企業イベントの企画・演出・制作・進行からアクロバットショー・格闘技・演劇・クラシックコンサートの演出などジャンルレスに活動。

 

<TOPIC1:幼少期についてー厳しくも理解あるお父さんの存在>

―了さんは子ども時代、どんなお子さんだったのですか?
僕は小学生のときいじめられっ子でした。
背が低くて、細くて、坊ちゃん狩りだったので後ろから見ると女の子みたい。なにか言われても言い返せないし、すぐ泣いちゃうような子どもでした。意外と真面目で、我慢することが当たり前だと思っていました。
小さい世界にいたけど、その世界からはみ出しちゃいけないと思っていたので、言い返すこともできなかったんです。

―意外な子ども時代ですね。子どものときになりたかった職業は?
野球選手!生まれ変わったら野球選手になりたいです。
でも高校生になるまで背が伸びなかったので、諦めてしまいました。
友達のお兄ちゃんの影響でラジオをよく聞いていたのでラジオのDJにもなりたかったし、なりたいものはたくさんありました。


―なぜ演出家に?
高校時代は大学に行けるほどの勉強をしていなくて。
そんなとき父のほうから「大学に行ってもやりたいことがないならアメリカにいって英語の勉強をしてこい!」といわれ、そういってくれるなら行きたいと思ったんです。
アメリカに行ったら何をしたいかと考えたときに、ハリウッド⇒ニューヨーク⇒映画監督と連想し、映画監督になりたいと思いました。
もともと母が映画好きで、レンタルビデオが途切れることなくずっと家にあったんです。なので、中高時代は信じられないくらい家で映画をみていました。弟も同じで、役者になったきっかけは母のレンタルビデオを見ていたからだと言っていて、なにがきっかけかわからないですね。
両親はやりたいことに対しては最終的には後押しをしてくれる存在で、映画監督になるというのも反対はされませんでした。


―具体的にこんな風になりたい、と思っていた大人はいますか?
少なくとも、父みたいにはなりたかったです。
父はオペラのプロデューサーをしていて、仕事が忙しくほとんど家にいなかったけど、一緒に遊んだ記憶もあるし、寂しいとは思いませんでした。小学4年生のときにお父さんがテレビの特集にでていたことがあって、「えらいひとなんだ」と思いました。自然と父の背中を見ていましたね。だからせめて父みたいにはなろうと思っていました。


―そんなお父さんは了さんにとってどんなお父さんでしたか?
父はめちゃくちゃ怖かったです。いわゆる昔の気質の父親で、怒られて殴られることもありました。
でも殴られたことを根にもったことは一度もなくて、自分も悪いことしたな、言い方が悪かったな、などと自分さなりに納得していました。
それ自体を容認しているわけではありませんが、人に殴られたことのないひとは人を殴る怖さをわからないと思います。
殴ることの怖さを知らないひとがひとを殴る、というのがいちばん怖いことだなとも思います。僕の子どものころは、ひとの子も自分の子という時代で、悪いことをすると近所のおばちゃんにも頭たたかれたりしていましたからね。


―ご両親からの教えはありますか?
電話のでかたは小栗家の子どもは全員指導されていました。
父の仕事の電話が家にかかってくることが多かったので、「はい、もしもし小栗でございます、どなたさまでしょうか」というように教えられました。
今みたいに携帯電話があるわけではなかったので、偉い人から電話がかかってくることもあり、電話にちゃんと出るように言われていました。


<TOPIC2:子育てについてーこどもの可能性をひろげる>


―小栗家ならではの子育て法やこだわりはありますか?
こだわりというほどではないのですが、子どもを連れて僕の友達に会うと、「子どもに対しても大人と同じように接してる」とよく言われます。
ただひとつ、挨拶だけはちゃんとできるひとになってほしいです。
仕事をしていると、コミュニケーションで仕事が繋がることって多いなと思います。

ひとだから、得手、不得手があるのは当たり前。でも誰かと一緒に仕事をしなければならない場面は多い。そうするとやはり仕事のスタート地点は挨拶だとおもいます。だから最低限、挨拶はするように言っています。
あとは僕は両親にやりたいことをやらせてもらったので、子供にもなるべくやりたいことやらせたいなと思います。


―お子さんにやらせたいこと、挑戦させたいことは?
なにかを押し付けたくはないですが、親父の背中をみてきていたので僕も背中をみせたいです。
僕はアメリカに行って英語が話せるようになったので、子どもにもそれはさせたいかな。
この(ムーミンの)仕事も、英語が話せたからシルクドソレイユの仕事をやっていて、シルクドソレイユの仕事をしていたからお話をいただいたんです。
全部なにかのきっかけが繋がっているので、父と母にはアメリカにいかせてもらえて感謝しています。


―きっかけの大切さを知る了さんから、子育て中のパパ、ママに応援メッセージを!
昔の当たり前が今の当たり前ではないと思ってほしいです。
例えば、子どものころゲームばかりして怒られていた子が、今はゲーム会社の社長かもしれない。そしたら親としては自慢の息子ですよね。
時代の流れが速いので、いま悪だとおもっていることが悪ではないこともあるんだと思います。虫歯になるからとチョコレートを食べなかった子が、ひとくち食べたチョコの味に感動して、パリでパティシエになって世界のショコラティエになっているかもしれないし。
人生どこで変わるかわからない。
僕は今、42歳になっても好奇心だけは捨てないようにしてるんです。
こどもにも同じように、やりたいことはやらせて、あわないことはやめればいい。ながくつづけることがすべてではないと思います。
もちろん時間やルールを決めてやらないとのべつ幕無しなところもありますけど、これはダメ、あれもダメと止めてばかりでなく、親として子どもの可能性をひろげてあげたいです。


<TOPIC3:いまのご職業についてー人生の1パーツとなったショー演出>


―実は「ムーミンベイビー」だという了さん。この仕事にとてもご縁を感じていたそう。
昔、ムーミンのキャラクターショーの名古屋公演で両親は出会いました。ムーミン役をしていたのが母、そしてその照明をしていたのが父でした。
だから、ムーミンがいなかったら小栗家はいない!小栗家にとってムーミンは大事な存在です。


―「エンマの劇場」ショー演出をされてみてどうでしたか?
学ぶことがいっぱいありました。やってよかったです。
キャラクターショーに携わるのは初めてで知らなかったこともいっぱいありましたし、その中で押し切ったこともあります。やりたいことが詰まってて、いまのぼくにできることはほとんど詰め込みました。
脚本を書いたのも、音楽で歌詞かいたのも今回が初めてのことでした。
僕は死ぬまで勉強するつもりなので、これだけ勉強させてもらったことは人生の1パーツとしてありがたい仕事です。


―ついに開業し多くの方の目に触れますが、どんなお気持ちでしょうか?
なるべく老若男女、楽しんでいただけるものにしたいと思ってつくりはじめました。
ムーミンを知らない世代にも、おもしろかった、ムーミンを好きになったと次の世代に繋がっていってほしいです。



小栗了さんームーミンバレーパーク「エンマの劇場」前にて


了さんが脚本・演出を務めたエンマの劇場「たのしいムーミン一家~春のはじまり~」


<おわり>

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